院長 地當健一 じとう けんいち

院長 地當健一

経歴

1972年1月
京都市山科区生まれ
1994年3月
立命館大学文学部卒業
1998年3月
行岡整復専門学校卒業 柔道整復師免許取得
1994年〜2002年
あやた鍼灸接骨院(現:あやた接骨院)勤務
2002年5月
山科区四ノ宮にてじとう接骨院開院
2007年1月
山科区音羽沢町に移転

資格

  • 柔道整復師
  • 機能訓練指導員
  • 太田式熨法指導員
  • コアコンディショニング・ベーシックインストラクター

はじめまして!院長の地當健一と申します

初めて治療に来られる時は、どんな人に治療されるのか不安がありますよね。私の経験上、どれだけ安心して治療を受けていただけるかで、全く効果の出方が違ってくるのです。あなたが安心して私と治療に向き合えるように、私のことを少しお話させていただきます。少しお付き合いください。

地當家の長男として生まれる

両親と祖母そして私

1972年1月に地當家に長男として私は生まれました。
母は「健一が生まれた年は冬の寒さが厳しかった。おむつを替える時にブルブルと体を震わせていた」と話してくれたことがあります。その時の記憶が体に残っているのでしょうか、いまだに寒いのは苦手です。兄妹は弟と妹が1人づつで弟は3つ年下、妹は6つ年下の3人兄弟で遊びもしケンカもしながら育ちました。

私の父は、潮岬のある和歌山県の串本町出身で、京都で魚屋さんを開いている地元の先輩を頼り、そのお店での修行を経て京都の山科で「魚伊」と言う魚屋を開きました。父は店を開いた当時は独身でした。父が開業して2年が経った頃に串本町の知人の紹介で母とお見合いをして結婚したそうです。
お店は繁盛しており両親共に忙しくしていたようで、なかなか子育てに手が回らなかったということです。そんな両親を手伝うために母方の祖母が串本町から京都まで出てきて私たち兄弟の面倒を見てくれていました。

幼いころの私

幼稚園に通っていたころや小学校の低学年の時の私は、大人しく内気でいつも人の後ろに隠れているような子供でした。走る、跳ぶといった運動は人並みに出来たのですが、バットやラケットなどの道具を持たせるとまるでダメ…。皆で野球をする時などは、私が入ると負けるのでのけ者にされた記憶があります。
そんな私を見て母親は、何とかしっかりしてもらいたいと思っていたのでしょう。愛の鞭をふるい厳しくしつけをしてくれました。私にとっては、その愛の鞭は本当に怖くて「なぜ怒られるのか?どうしたら良いのか?もしかして自分は役に立たない人間なのではないだろうか」とまで思いつめることもありました。

いつしか私は自分の身を守るために、どんな時に母の愛の鞭が振るわれるのか知りたくなり、母の一挙手一投足を常に観察するようになりました。

いつも怒られて泣いている私を「あなたは大丈夫」と常にかばってくれたのは、母方の祖母です。その時、祖母が与えてくれた安心感は、本当に心地よかったので、人に対して安心感を与えることは、今の私の人との関わりあい方の基礎となっています。

東洋医学との出会い

名医に骨折を治してもらう

私が中学3年の時に体育のサッカーの授業でゴールキーパーをしている時にボールを取ろうとして、指を地面に打ち付けてしまい骨折してしまいました。その時にお世話になったのが、近所の接骨院でした。
その接骨院の先生は外傷の治療経験が豊富で、レントゲンもエコー検査器もない施術室で手を使った検査によって、私の指の骨折を骨折の状態を判断し整復固定してくれました。そのおかげで、今現在も後遺症が残ることなく正常に指は動いてくれています。

ボロボロの状態で受けた治療に感動

高校生の時は柔道部に所属していました。体も小さくどんくさかったのですが、少しでも強くなりたいと思い、警察署の柔道教室や先輩のツテを辿って大学の柔道部に出稽古に行かせていただいていました。

高校2年の夏休みに大学の柔道部に出稽古に行った時の事です。
何と私は大学の柔道部へセレクション入学してきた先輩を、まぐれではあるのですが背負い投げで綺麗に投げ飛ばしてしまったのです。まぐれとは言え奇麗に投げてしまった後、私はその先輩に投げられまくりぼろ雑巾のようになってしまいました。何とか稽古が終わりほうほうの体で帰宅したのはいいのですが、次の日から身動きをとることが出来ません。受け身を取り損ねて、腰の捻挫(ギックリ腰)を起こしていたのだと思います。
腰を痛めて身動きの取れない私を見かねた母が、知り合いの整体の先生に連絡を取ってくれて、治療を受けました。1、2回の治療で痛みがとれて疲れも取れ、体が軽く動くようになり「凄いな!!」と感動しました。

ちょうどその頃、整体の先生に治療してもらい回復した時期に、NHKのドキュメンタリー番組でアフガニスタン派兵から帰還された負傷兵の特集をやっていました。その特集の中で、片方の上肢を失った兵士がリハビリ施設で「痛むはずのない失った腕が疼くんだ、何とかしてくれ」と訴えていました。それは幻肢痛(げんしつう)という脳が作り出してしまう症状で、訴えている本人は本当に痛みを感じてしまう症状です。その症状に対する治療として、兵士の残っている方の上肢に対して鍼治療を施すことにより、幻肢痛による痛みを治めるというシーンがありました。

私は自らの痛みを取ってもらい感動したばかりで、その番組を見てさらに猛烈に感動した覚えがあります。

大学生で振り返り決心

当時は、世間では大学進学が当然という流れでしたので、高校を卒業しそのまま大学へと進学しました。
大学では、入学してすぐに極真空手の道場に入門しました。少しずつ実力がつき地方大会に出させてもらえるくらいにはなりました。
大会前の稽古で筋疲労がたまり、ギックリ腰になった時や蹴りを受け損なって右の手首を痛めた時には、鍼灸指圧師の先生のお世話になり短期間で稽古に参加できるようにしていただきました。

大学4回生になりこれからどうしようかと考えたとき、中、高、大学生時代にケガをして痛みがあるだけで身動きが取れない、靴を履くのも一苦労など、日常生活がかなり制限されることを身をもって知り、肉体的な痛みが続くと精神的に後ろ向きになりやすいことを実感したことを思い出しました。そして同時に、治療をしてもらい肉体的な痛みが取り除かれることによって精神的に前向きに生活を送ることができ、大変感謝したという体験も思い出しました。

やはり一生の仕事にするならば「人を治して感謝されながらできる素晴らしい仕事」である東洋医学の道に進みたいと決心しました。

恩師 綾田先生との出会い

修行先を電話帳で探しては電話で問い合わせていたのですが、鍼灸院で無資格者を雇ってくれる院はなかなかありませんでした。今から考えると赤面ものなのですが、当時は大真面目です。そのような状態であることを空手道場の先輩に相談したところ、知り合いの接骨院で助手を探しているからということで紹介をしていただいたのが、その後お世話になることになった綾田先生でした。

綾田先生に色々と話を聞いていただき、「柔道整復師という資格でも地當君の想いはかなえられるよ」とアドバイスを頂いたのが、東洋医学の道に進みたいという思いの中で柔道整復師になるという道を選んだ最初の一歩です。

厳しくも楽しい修業の毎日

22歳の5月から30歳の3月までの約8年間「あやた鍼灸接骨院(現:あやた接骨院)」でお世話になりました。
23歳の4月に大阪にある「行岡整復専門学校」に入学。自宅がある山科から職場のある上桂までは電車で2回乗り継ぎが必要で通勤時間は1時間半かかったため、専門学校に入学してからの3年間は、朝5時半に起床し、6時過ぎには家を出て電車に乗り7時30分に接骨院に入って院内の掃除など治療の準備、8時半から治療の助手をし、12時から専門学校に通い、17時に接骨院に帰って来て21時まで勤務。帰宅するのは毎日22時を超えていました。
さらに、寝る前に治療の勉強をすることを日課としていましたので、就寝は1時過ぎ、そしてまた翌朝は5時半起床という生活でした。毎日あまりに眠かったので、起床して直ぐに腕立て伏せ100回を4セットして強制的に目を覚ましていました。

修行先の接骨院はよく流行っていました。問い合わせがあっても断らなくてはならない患者さんがたくさんおられました。
修行先ではよく怒られ、悔しい思いや嬉し思い、楽しい思いなど色々な経験をしました。よく働き勉強した時期でした。そのおかげもあって、国家試験も一回で合格することができました。

師匠からの大切なことば

ある日、綾田先生から「治療で患者さんにベストを尽くすのは当たり前だ。しかし治療において万能な治療法はないと思う。だから、その患者さんにとって、より良い治療法、ベターな治療法を常に模索しなさい。常に勉強しなさい。患者さんに寄り添うことを忘れたらあかんで」
というお話がありました。この綾田先生の教えは、今でも私の治療家としての信念となっています。

あやた鍼灸接骨院で教えていただいた治療技術、そして信念が、私の治療家としての基礎となっていることは間違いありません。

なぜ開業したのか

26歳で柔道整復師の資格を取った後は、患者さんを治療させてもらえることが嬉しく、またスタッフさんや患者さんも仲良くしてくださる方が多く仕事が楽しくて仕方ありませんでした。しかし、そういった場で働かせていただいていると、自分の中に甘えが出てしまうのです。治りの悪い患者さんや、ややこしい症状の患者さんがいても「最終的には院長に任せればいいや」的な。このままだと自分の能力を伸ばしきれないかもしれないなと言う思いに駆られました。

自分が最後の砦になり言い訳のできない状況に追い込むことで、治療技術以外にも自分を向上させて能力を開花させたいという想いが、開業を決意した一番の理由です。

いざ開業して

30歳になった平成14年5月、地元の山科区四宮で開業しました。
開業初日の朝、院内外の掃除をやり終えて、患者さんに来ていただけるのだろうとドキドキしていると、受付開始時間の8時半に院の自動ドアが開きました。
「おっ、こんなに早くから来てくださったのか」と感激して、受付から元気よく「おはようございます!」とあいさつをしたのですが、だれも入って来る様子はありません…
「あれ?」と思いながら玄関を覗くと、なんと立派な体格をしたシベリアンハスキーが立っています!しかも、飼い主もいない様子です。その迷いシベリアンハスキーは2.3秒間、私を見つめた後に静かに立ち去っていきました。1番最初に訪れたのが人では無く犬という接骨院は、当院ぐらいではないでしょうか。忘れることができない出来事でした。

ターニングポイント

開業当初から予約制を取り入れていましたので、患者さんが増えてくると受付時間の前倒しで6時半から施術したり、終了以降の10時半までの施術したりすることが当たり前になってきました。そのような状態で開業から3年が経ったころのことです。

ある朝、ベッドから起きようとした瞬間「あれ…?」
身動きを取ることができません。金縛りのような状態です。それでも予約が入っているので何とか職場まで行くと、徐々に体が動き出します。そのような状態が3日ほど続きました。なんとか体調も回復し、近所のコンビニに買い物へ行こうと小走りをしたときに「ギック!!」と腰に痛みが走りました。まさにギックリ腰というやつです。

その時、私は思ったのです、自分が診てもらう立場であったならギックリ腰を起こすような治療家に安心して体を預けることができるのだろうか?自分は治療家を続けてもいいのだろうか?辞めたほうが良いのではないだろうか?と。

しかし、こんな私でも頼ってくれる患者さんが居られ、その患者さんが良くなって顔が輝きだす様子を見ていると、「やはりこの仕事が好きだ。だからどのようにかして、今の状態を乗り越えて、今より良い治療家になりたい」と強く思いました。そこでまずは、自分の体調管理から始めようと色々な治療院に通い始めました。
そして、そこで実感したことがあるのです。治療してもらった後は快調なのですが、しばらくすると腰にだるさや痛みが出てくるのです。

患者さんが「治療してもらって、しばらくは調子よかったんだけど…」と言って来院される気持ちが初めて理解できました。

治療してもらうだけでは健康にはなれない。
どうすれば、日常生活において痛みを感じることなく、いきいきと健康に過ごすことができるのだろうかと考え始めたのです。

ここに至って初めて、自分はどの様に身体を使っているのだろうか?立ち方は?歩き方は?意識の持ち方は?呼吸も関係しているのではないのかな?という視点を持ち始めたのです。そのようなことを教えてくれるような場所を求めて、身体操法の教室や中国武術、合気柔術の道場に通いました。

稽古をしていく中でバランスや呼吸の大切さや意識の持ち方の重要性を理解することができ、理解したうえで稽古を続けていくうちに腰の痛みを感じることは無くなりました。腰の痛みを感じなくなってからは、家族に常に笑顔で接することができるようにもなりましたし、全力で走っても腰に痛みを感じることが無くなりました。そして、以前より仕事が楽しくなったといった変化がありました。

患者さんが「困っていること」を解決するために

患者さんの困りごとを解決します

このような経験から、私は患者さんの痛みという症状を解決するだけではいけない。
なぜそこに痛みが出たのか?バランスの問題なのか?意識の持ち方の問題なのか?何か他に原因があるのではないか?というところまで解決できて初めて健康になれる。
健康であるから楽しく日常を過ごすことができるのだと学びました。

そして、その状態まで導くことができて初めて、患者さんの痛みはもちろん、痛みがあることによって困っていることを解決できたと言えるのではないか、と考えるようになりました。そこまでお付き合いさせていただくことが私の仕事なのだと思いながら日々の治療にあたっています。

院長 地當 健一

(柔道整復師 地當健一 監修)

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